鶴田 義行(つるた よしゆき、1903年(明治36年)10月1日~1986年(昭和61年)7月24日)は、鹿児島県鹿児島郡伊敷村上伊敷字飯山(現在の鹿児島市伊敷八丁目の一部)出身の水泳選手です。
日本人初のオリンピック連覇者であり、男子200メートル平泳ぎの元世界記録保持者です。
鶴田義行の来歴
- 1903年
鹿児島県鹿児島郡伊敷村に、鶴田八太郎の二男として誕生します - 1920年頃
鉄道省(国有鉄道)鹿児島機関区に就職します。 - 1924年頃
海軍佐世保海兵団に入隊し、本格的に泳ぎを始めます。 - 1925年
第2回明治神宮競技大会(芝公園プール)に出場、200メートル平泳ぎで優勝します(3分12秒8)。
第2回日本選手権水泳競技大会に出場し、200メートル平泳ぎで優勝します。 - 1928年
アムステルダムオリンピックに出場(報知新聞社所属)します。
200メートル平泳ぎで予選(2分50秒0)、準決勝(2分49秒2)と調子を上げ、8月8日に行われた決勝は2分48秒8で当時世界記録保持者だったドイツのエーリッヒ・ラーデマッハーを抑え優勝します。
6日前の8月2日に陸上男子三段跳で金メダルを獲得した織田幹雄に続く日本人2人目、競泳種目では日本人初の金メダリストとなりました。
なお、織田の受賞した金メダルは銅製であったのに対し、鶴田の金メダルは規定に沿った銀製のメダルでした。 - 1929年頃
明治大学専門部法科に入学します。 - 1929年
200メートル平泳ぎで2分45秒0の世界記録を樹立します(京都)。 - 1932年
明治大学専門部を卒業し、南満州鉄道に就職します。
ロサンゼルスオリンピックに出場します(南満州鉄道所属)。
200メートル平泳ぎでは小池禮三(沼津商)が有力で、予選は同タイム(2分46秒2)でした。
準決勝は小池(2分44秒9)に敗れますが、決勝では2分45秒4を出し優勝します。
小池は2分46秒4で銀メダルでした。
鶴田は日本人初のオリンピック連覇者となりました。
オリンピック競泳平泳ぎでの連覇は、男女を通じて鶴田と北島康介の二人だけです。 - 1934年
名古屋市役所の体育主事となります。 - 1943年
海軍に応召されます。 - 1948年
愛媛新聞社に入社します。
その後事業部長・営業次長、東京支社長、監査役を歴任します。
同時期に愛媛県水泳連盟副会長・理事長、その後愛媛県体育協会理事、松山水泳協会会長、日本水泳連盟顧問、日本体育協会会賓などを兼務しています。 - 1949年
愛媛新聞社主催による第1回愛媛水泳学校を始めます(~1988年)。
泳げない子供を無くす活動を通じて、水泳の底辺拡大に努めました。 - 1959年
愛媛県教育文化賞を受賞します。 - 1962年
紫綬褒章を受章します。 - 1968年
国際水泳殿堂入りを果たします。 - 1974年
勲四等旭日小綬章を受章します。 - 1977年
愛媛県功労賞を受賞します。 - 1980年
オリンピックオーダー(功労者)賞を受賞します。 - 1986年
7月24日、脳梗塞により逝去します。
享年82歳でした。
鶴田義行の世界記録
IOC(国際オリンピック委員会)が公認する記録は
- 競泳男子200メートル平泳ぎ 2分45秒0 1929年7月27日 京都
(アメリカのスペンスが1931年4月2日に2分44秒6を出すまで614日間保持)
鶴田義行のエピソード
- アムステルダムオリンピックでは早朝選手村を抜け出し、管理人を懐柔して本番前のプールで試泳を行っていました。
- ロサンゼルスオリンピック参加のための長期休暇は満鉄に認められませんでした。
欠勤扱いとなり、昇給・ボーナスもカットされてしまいました。 - ロサンゼルスオリンピックへの出場は、どちらかといえば小池禮三のサポートという目的でなされたものでしたが、結果的に連覇という栄誉につながりました。
- 鹿児島市伊敷八丁目国道3号沿いにある鶴田義行生家前に、鶴田の銅像と記念碑が建てられています。
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